★★ フォン=ノイマン(1903〜1957) ★★
「プログラム内蔵方式コンピュータ」の考案者
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 現代のコンピュータは全て「プログラム内蔵方式コンピュータ」です。これを考案したフォン=ノイマンは、コンピュータ 学・化学・数学・物理学・量子力学といった様々な学問分野に関わり、それぞれの分野で歴史に残る業績を残した天才的な人物でした。

◆ ハンガリーの若き天才
 フォン=ノイマンは1903年、オーストリア・ハンガリー帝国の都市ブダペストで生まれました。少年の頃から数学に異常な才能を示したので、大学の先生から個人的な教育を受けるようになります。
 15才のとき、第1次世界大戦(1914〜1918)でオーストリア・ハンガリー帝国が敗北。その後も国内が混乱する中、ノイマンはハンガリーを離れ、ドイツ・スイスで勉強を続けました。18才頃からますます天才ぶりを発揮し、数学と物理学の分野で次々に独創的な理論を発表。20才の頃には立派な数学者になっていました。

◆ アメリカに移住
 27才の頃、アメリカのプリンストン大学に教授として招かれ、そのままアメリカに移住しました。1930年代後半、アメリカ軍部の要請に応じて、弾道・流体・衝撃波・気象などに関する応用数学に携わるようになります。するとたちまち技術系軍人の間で「応用数学で困ったことがあれば、フォン・ノイマンに聞け」と言われるようになりました。

◆ 第2次世界大戦中、軍事研究に積極的に参加
 1939年、第2次世界大戦が始まると、ノイマンはアメリカの軍事研究に積極的に参加しました。1943年には、マンハッタン計画(アメリカの原爆製造計画)の中心人物の一人となり、膨大な計算をしなければならなくなります。このため、電子計算機への関心を高めていきました。
 1944年、ふとしたきっかけでペンシルバニア大学のモークリーとエッカートが電子計算機「エニアック」を開発中ということを知ると、すぐに見学に行きました。以後アドバイザーとして「 エニアック」開発に参加。世界初の汎用コンピュータ「エニアック」の開発に大きく貢献します。

◆ プログラム内蔵方式コンピュータを考案
 しかし、この「エニアック」には大きな問題がありました。「エニアック」では、使えるプログラムは弾道計算用プログラムひとつ でした。これ以外の、例えば流体力学の計算をしたい場合は、数人の技術者が何日もかけて配線をつなぎ替え、「流体力学計算用プログラム」をセットする必要がありました。「エニアック」にはたくさんのプログラムを記憶する機能は無かったのです。
 そこで戦争の末期にノイマンが考案したのが、「プログラム内蔵方式コンピュータ」でした。これはコンピュータに様々なプログラムを記憶させ、使いたいプログラムを起動して処理するというものです。現代のコンピュータは、ワードやペイントなど、色々なプログラムを記憶装置に内蔵しています。そして、使いたいプログラムを起動して文書を作っ たり、絵を描いたりします。現在では当たり前のことですが、これはコンピュータの能力を飛躍的に高める画期的なアイデアでした。

◆ アメリカ核開発の中心になる
 第2次世界大戦が終結すると、それまで一緒にドイツ・日本と戦っていたアメリカとソビエト連邦が敵対するようになりました。ノイマンは、ソ連に対して強硬な考え方を持っており「核爆弾でソ連を滅ぼすことが平和の鍵だ」と信じて疑わなかったといいます。ノイマンは、アメリカ核開発の中心となり、水素爆弾計画に参加し、大陸間弾道ミサイルの開発を決定しました。
 しかし1957年、不治の病で倒れ、陸軍病院に入院します。原爆実験に立ち会って放射線を浴びたためと言われます。やがてノイマンは、53才の若さで死去しました。

 ノイマンの業績は生前から高く評価され、自由賞、アルバート・アインシュタイン賞、エンリコ・フェルミ賞などを受けています。



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