ここでは世界初の汎用コンピュータ「エニアック」の開発者、モークリー(1907~1980)とエッカート(1919~1995)について紹介します。
◆ モークリー、膨大な計算に苦労
1930年代、若き物理学者モークリーは分子エネルギーの計算などをするとき、膨大な計算をしなくてはならないことに苦労していました。そこでモークリーは電気式計算機を色々と試作します。お金がなく、予算で苦労しながらも、計算機の構想を練り上げていきました。
◆ 第二次世界大戦と電気工学講座
1939年、ヨーロッパでドイツがイギリス・フランスと戦争をはじめました。多くの国々を巻き込む第二次世界大戦のはじまりです。この時、アメリカは戦争に参加していませんでしたが、参戦は時間の問題でした。戦争になれば、電気工学者が必要になります。そこで、モークリーが所属するペンシルバニア大学では、戦争に備えるため、電気工学者講座を開きました。
◆ モークリー、エッカートと出会う
モークリーは、計算機を作るため、電気工学をもっと知りたかったので、この電気工学者講座に参加しました。この講座で、モークリーは自分の電気式計算機のアイデアを参加者たちに話したのですが、関心を示す人はほとんどいませんでした。
モークリーのアイデアにただ一人関心をしめしたのが、電気工学者講座のアシスタントをしていた院生エッカートです。二人はたちまち気が合い、電気式計算機のアイデアを話し合いました。
◆ アメリカ陸軍と、世界初の汎用コンピュータ「エニアック」
この頃、アメリカ陸軍は計算速度の速い計算機が必要でした。砲弾を的にあてるには、砲弾がどのような曲線(弾道)を描いて飛ぶか分からなければなりません。しかし、この弾道を知るには、膨大な計算が必要です。アメリカ陸軍は大勢の人間を動員して計算を行なっていましたが、これには限界がありました。
1942年、アメリカ陸軍は、モークリーの電子計算機のアイデアを知ると、企画書の提出を依頼。この企画書は採用され、弾道計算用の電子計算機の開発が開始されました。戦争は1945年に終わりましたが、プロジェクトは続行。そして1946年、電子計算機「エニアック」が完成しました。「エニアック」は弾道計算だけでなく、偏微分方程式の解法など様々な式を処理できたので、世界初の汎用コンピュータと言えるでしょう。
◆ 世界初の商用コンピュータ「ユニバック」
「エニアック」プロジェクトの終了後、モークリーはエッカートと世界初のコンピュータ会社を設立しました。そして世界初の商用コンピュータ「ユニバック」を作りました。それまでコンピュータは、陸軍の弾道計算・政府の統計調査・科学技術計算に使われていました。しかしこの「ユニバック」の登場により、コンピュータは一般企業にも販売されるようになりました。
◆ 大統領選挙の結果を、コンピュータが予想
「ユニバック」が有名になったのは、1952年の大統領選挙のときです。この時、アイゼンハワーとスティーブンソンが、大統領の座をめぐり、選挙戦を戦いました。マスコミなどは、勝負は五分五分と見ていました。この時、「ユニバック」に選挙の予想をさせることになりました。
マスコミは単なる見世物のつもりでしたが、コンピュータ技術者たちは真剣でした。
技術者たちは、過去の大統領選挙の統計を分析し、膨大なデータを入力。「ユニバック」で選挙結果をシュミレーションができるようにしました。そして「ユニバック」は『アイゼンハワーの圧勝』と予想。マスコミなどの予想とあまりにも違ったのですが、「ユニバック」の予想は見事に的中しました。
現在、モークリーとエッカートの業績は高く評価され、彼らの名を与えられた「エッカート・モークリー賞」は、コンピュータの世界では名誉ある賞となっています。 |